2011年3月31日木曜日
街は
富美恵の展示即売会のために、震災以来初めて3週間ぶりに下山。
ガソリンは大丈夫だろうか、食べ物は確保出来るだろうか、と少し心配しながら山奥の田舎者は恐る恐る出てきました。
林道はだいぶ雪の量が減りましたが、まだまだ雪国。
でも、車庫の有る布沢の集落は、各家々の周りの雪は片付き、路面はきれいに乾いています。
あ~、里は春、そして震災の影響は見た目には無く、のどか・・・それに比べて毘沙沢は・・・。
南郷の「きらら」で昼食、いつもの場所は電気を消して、和室だけで営業。
あれ、家族連れがいつもより多いな、と思ったら、避難の方々でした。南相馬とか・・・。
30人ほどでしょうか。遠い所から雪の町に・・お気の毒に。
途中の道路は気のせいか車の数が少ない。栃木・茨城に入ると瓦が落ち、シートをかぶせた屋根とか大谷石の塀が壊れたりしています。
守谷の西友は電気を半分くらい消しています。でも、食材は全てそろいます。
ガソリンはどこでも普通に給油が出来ました。宇都宮郊外のいつもの店は145円/L、少し値上がり、でも並ぶことはありません。
私は現在東京郊外に居ます。食べ物も、燃料も、インフラも全てが今までと変わりません。
昔、戦災の話を父から聞きました。焼け出された者とそうでない者の差は雲泥の差。
震災もまたそうしたものだと感じます。遠くに離れて、さらに強く感じます。
楽をしていては申し訳ない。用事を済ませたら早く食材が底をついた雪の中に帰らなくては・・・。
そんな意味の無いことを考えたりします。
2011年3月29日火曜日
2011年3月27日日曜日
2011年3月26日土曜日
怒り
只見町の昨日の放射線公表値は0.12μSvです。
同じ福島県でも、只見町は新潟との県境の町ですから、福島第一原発からは測定点で152キロの距離になります。福島県の中では軽症?です。
それでも測定値には影響が出ています。
私たちが親しくしているK女史(相棒は私の田んぼの師匠)は、10年ほど前只見の環境に魅せられて移住。
以後、自然に親しみ無農薬・有機野菜を作り、自給自足を目指しています。
彼女が書いているブログ「只見・黒沢 風光舎便り」http://blog.livedoor.jp/kaede_080930/に以下の投稿があります。
実に切実な気持ちで訴えています。
福島県は県内の農家に、この春の田植えや種まきの当面延期を指示したようです。
小規模・自作農民は今後さらに窮地に追い込まれるでしょう。
農民はその土地から離れることは出来ませんから。
以後「只見・黒沢 風光便り」より。
昨日は、ほんとうならば月1回の通院するはずの日だった。
いろいろ考えて、ひと月後に予約を変更する。
雪も落ち着いたし、今月は車で行けるかなと思っていたけど、今はガソリンがなかなか手に入らない。只見線も止まっている。
前回の受診から2ヶ月開いてしまうことに不安はあるけれど、原発に近づく気にもなれない。外にもなるべく出たくない。
そんなこんなを秤にかけて、決めた。
それにしても大気中の放射性物質からの外部被爆、食べ物や飲料水からの内部被爆、どれもこれも「直ちに健康に影響はないレベル」なんて言ってるけど、普段から検査でいっぱい放射線を浴びている病人はどうしたらいいのか…。
電子レンジでさえ気を使っているのに。
手術をしてからずっと、6ヶ月毎に受けているCT検査(それも造影剤を使った長時間の)、髄膜腫の成長?を見るため年1回受ける頭部CT検査、肺の影の様子を見るために何ヶ月かに1回受ける胸部X線検査、手術後の障害で腸閉塞になりかかって何度も受けた腹部X線検査…。
これ全部足したらどれくらい?
だから、原発の放射能はお断り!! .
同じ福島県でも、只見町は新潟との県境の町ですから、福島第一原発からは測定点で152キロの距離になります。福島県の中では軽症?です。
それでも測定値には影響が出ています。
私たちが親しくしているK女史(相棒は私の田んぼの師匠)は、10年ほど前只見の環境に魅せられて移住。
以後、自然に親しみ無農薬・有機野菜を作り、自給自足を目指しています。
彼女が書いているブログ「只見・黒沢 風光舎便り」http://blog.livedoor.jp/kaede_080930/に以下の投稿があります。
実に切実な気持ちで訴えています。
福島県は県内の農家に、この春の田植えや種まきの当面延期を指示したようです。
小規模・自作農民は今後さらに窮地に追い込まれるでしょう。
農民はその土地から離れることは出来ませんから。
以後「只見・黒沢 風光便り」より。
昨日は、ほんとうならば月1回の通院するはずの日だった。
いろいろ考えて、ひと月後に予約を変更する。
雪も落ち着いたし、今月は車で行けるかなと思っていたけど、今はガソリンがなかなか手に入らない。只見線も止まっている。
前回の受診から2ヶ月開いてしまうことに不安はあるけれど、原発に近づく気にもなれない。外にもなるべく出たくない。
そんなこんなを秤にかけて、決めた。
それにしても大気中の放射性物質からの外部被爆、食べ物や飲料水からの内部被爆、どれもこれも「直ちに健康に影響はないレベル」なんて言ってるけど、普段から検査でいっぱい放射線を浴びている病人はどうしたらいいのか…。
電子レンジでさえ気を使っているのに。
手術をしてからずっと、6ヶ月毎に受けているCT検査(それも造影剤を使った長時間の)、髄膜腫の成長?を見るため年1回受ける頭部CT検査、肺の影の様子を見るために何ヶ月かに1回受ける胸部X線検査、手術後の障害で腸閉塞になりかかって何度も受けた腹部X線検査…。
これ全部足したらどれくらい?
だから、原発の放射能はお断り!! .
2011年3月25日金曜日
2011年3月23日水曜日
2011年3月22日火曜日
春はそこまで
昨年はすでに林道の除雪が終わっていたというのに。
「震災で大変ですね。燃料が不足で、無理でしょうね・・・予定が立ちましたら連絡ください。」
などと町役場の林道除雪担当のNさんと・・・電話。
同じ福島県の多くの方が、未だに肉親の行方もわからない、などと聞いてはこれ以上の無理は言えません。
「取り合えず歩いて下山は出来ますから・・・」などと言っている。
娘が、外には出ないように、と忠告をしてくれていても、一日中家の中に居るわけにもいかない。
少しは運動しなくては・・じっとしていると寒いしね。などと女房に言い訳をして。
家の前の雪は未だ2mを超えている。
仮に、林道の除雪が終わっても、この壁は自分で掘らねばならない。
数日前から、仕事の合間に少しずつ掘っています。
暖かくなればじきに溶けるのですが、でも掘らずには居られない。
これが雪国人の習性。
春はこの壁の向こう側に、もうすぐ来るはずです。
2011年3月21日月曜日
放射能
よく分からないままに不安を感じていた放射能。
昨日、Y氏から適切な資料が送られてきました。
カルフォルニア大学、Ben Monreal教授の「福島原発の放射能を理解する」です。
素人には簡単に分からない中で。
「教訓:1Sv=1000mSvを被爆することは運転中に携帯メールを打つ危険と同程度のリスクで、避けたほうが良いのは確か・・・。」
「教訓:5Sv以上=命の危険:逃げる」
「5000ミリシーベルト=致死量ですから、毎時400mSvの所に5000/400=12時間いれば生命の危険があります。」
など、分かりやすく解説しています。
低量被曝の場合の影響は検証が難しいようですが、100mSvぐらいから癌の確立が上がるようです。
ちなみに今朝の只見町9時の測定値が0.10μSvですから、1000時間でも0.10mSvとなります。
まずは心配ない量でほっとします。
皆さん、自分の居住地でチェックしてみては如何でしょうか。
最後のまとめは無断で資料を掲載させて頂きました。
2011年3月20日日曜日
佐野さんから
毘沙沢へも時々遊びに見える仙台の佐野さんから投稿がありました。
実は13日深夜、大変な状況の中からの投稿だったのですが、スパムの中に紛れ込み、気がつくのが遅れました。
という事で、改めて以下に公開しました。
佐野@仙台です。
宮城沖(1978年)、阪神淡路(1995年)、東北関東(2011年)、全て経験してしまいました。
職場で大きな揺れ。実験装置停止。書類散乱。大渋滞の中、4時間かけて帰宅。
自宅は足の踏場無し状態だが、マンション管理組合理事長に変身。危険個所確認、自家発電機始動、全戸への声掛け。深夜まで。
翌12日も、マンション対応。臨時充電ステーション開設、水汲み場確保、トイレ確保、破損個所の撮影、近隣マンションへの声掛け、等々。
山屋なので修羅場には慣れているものの、体力勝負。自分の部屋を早く片づけるよう、カミサンに再三催促される。
文明と自然について、深く考えざるをえない時間。二日間の暗い夜空は、一生の記憶に残るかも…。
13日午後、電気と水道が復旧。テレビを見て、震災の凄さを知る。主人公が事後に状況を知ることに、いささかの疑問を感じる。
ガソリン、食糧、全く入手できない状態が、しばらく続きそうです。でも、只見慣れしているので、何とかなりそうです。
以上
実は13日深夜、大変な状況の中からの投稿だったのですが、スパムの中に紛れ込み、気がつくのが遅れました。
という事で、改めて以下に公開しました。
佐野@仙台です。
宮城沖(1978年)、阪神淡路(1995年)、東北関東(2011年)、全て経験してしまいました。
職場で大きな揺れ。実験装置停止。書類散乱。大渋滞の中、4時間かけて帰宅。
自宅は足の踏場無し状態だが、マンション管理組合理事長に変身。危険個所確認、自家発電機始動、全戸への声掛け。深夜まで。
翌12日も、マンション対応。臨時充電ステーション開設、水汲み場確保、トイレ確保、破損個所の撮影、近隣マンションへの声掛け、等々。
山屋なので修羅場には慣れているものの、体力勝負。自分の部屋を早く片づけるよう、カミサンに再三催促される。
文明と自然について、深く考えざるをえない時間。二日間の暗い夜空は、一生の記憶に残るかも…。
13日午後、電気と水道が復旧。テレビを見て、震災の凄さを知る。主人公が事後に状況を知ることに、いささかの疑問を感じる。
ガソリン、食糧、全く入手できない状態が、しばらく続きそうです。でも、只見慣れしているので、何とかなりそうです。
以上
今朝の毘沙沢
毘沙沢はいたって穏やか。
TVのスイッチを切りさえすれば、大災害が嘘のように、何一つ変化がありません。
雪の量はいたって豊か。
本来なら町民の春の野良作業のために、農道の除雪が始まる季節。
でも、今年は遅れているようです。
やはり影響は押し寄せています。
只見地区センターが構造の強度不足の危険から使用できません。
残る2つの地区センターは災害避難所になっています。
ここにも変化が出ています。
それでも只見町は地震被害ゼロ、放射能の影響微量?で、いたって穏やか。
(赤十字、婦人会などが後方支援を行っています。)
防災無線も届かぬ偏狭の地、毘沙沢。これで良いのかと思いつつも、節電に努め、備蓄食料で命をつないでいます。
普段孤立と戦っていますから、こうした事態ではありますが、この鈍感をお許しください。
2011年3月17日木曜日
ご心配の連絡
毘沙沢は福島県、という事で沢山の方からご心配の連絡を頂きました。
ありがとうございます。
福島第一原発事故で、さらに心配は広がります。
太平洋は只見からはだいぶ遠い、のですが・・・・。
私も心配で地図を取り出しました。
直線で140㌔。勿論東京よりは近いのですが、風の向きとか途中の山の様子とかを考えると、ま、東京とあまり変わらない、となります。
昨日から久々に只見らしい雪が降っています。
例年3月には林道の除雪が行われますが、今年はどうでしょう?
毘沙沢は昨年12月から陸の孤島ですから、すでに3ヶ月ほど補給がありません。
食料、燃料は底をついてきました。でもまだしばらく大丈夫。
必ず春の来る事を信じて。。
皆さまの所と通じる道は、写真の雪の壁の向こう・・です。
2011年3月14日月曜日
谷の国
司馬遼太郎の「この国のかたち」の中に「谷の国」という記述がある。
「谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった」という。
明治以後外国人が丘のを上を好んだことから、現代日本人も高級住宅地を「・・・丘」としたが、本来日本人にとって丘は住む対象にはない土地、と書いている。
確かに、私の周りを見渡しても全てが谷に住んでいる(最近の別荘は別)。
田も畑も川に沿って谷の奥へと伸びている。
「ただ、谷底の田はしばしば洪水に流される。家まで流される。そういう危険とのかねあい―二律背反の緊張―の上に日本社会が出来上がっている。」
今回の津波を見て、あらためて日本人の生き方の歴史を見たような気がしている。
「谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった」という。
明治以後外国人が丘のを上を好んだことから、現代日本人も高級住宅地を「・・・丘」としたが、本来日本人にとって丘は住む対象にはない土地、と書いている。
確かに、私の周りを見渡しても全てが谷に住んでいる(最近の別荘は別)。
田も畑も川に沿って谷の奥へと伸びている。
「ただ、谷底の田はしばしば洪水に流される。家まで流される。そういう危険とのかねあい―二律背反の緊張―の上に日本社会が出来上がっている。」
今回の津波を見て、あらためて日本人の生き方の歴史を見たような気がしている。
2011年3月11日金曜日
まとめて
上京となると用事をいろいろまとめます。
さらに下山して郵便局のどさっとたまった郵便物の中に・・写真の案内状が。
第50回日本クラフト展は今回予定が会いました。
織りの橋本京子さん、入場券が2枚同封、ありがたい。
出かけました。
会場前の気になる東京駅の駅舎は復元屋根が素晴らしい。
中央郵便局はガラス張りの高層棟がカーテンウォールを付けていました。
かつての外壁はかろうじて駅側前面が残されています。
高橋英子さんの個展は14日~19日、う~、残念ながら今回は無理。
先生スミマセン。
帰宅前日は久々の吉祥寺、3時間飲み放題メニュー。
留守の間に30cmほどの湿った雪が積もりました。
久々に重たい雪の中を2時間ほど掛けて戻りました。
前日、少々飲みすぎ。
今回は、演奏会から始まっていろいろ有りました。
毘沙沢はまだ寒い。
林道除雪は何時になるのか・・・。
2011年3月8日火曜日
トリスタン・ダ・クーニャ
世界で一番遠い島トリスタン・ダ・クーニャ。
一番近い都市ケープタウンから、貨物兼用客船で8日かかります。
それも年10往復、1回の定員は10人ほど。
ハイビジョンで2月9日に放映されたのですが、我が家のチューナーが故障。
知り合いの吉岡攻さんが、この番組の製作ディレクター、DVDをお借りしました。
英国領、島民267人80世帯、現金収入の6割がロブスター(イセエビに近く、日本にも来ている)、切手収入も大きい。
自給自足で農地財産は共有の共産社会を基本としている。牧草量が限られるため羊は島で管理し、島民1人2頭が割り当てられている。
1961年の大噴火で、赤道をはさんだ反対側、自国ロンドンに非難。2年後に投票で帰島を決めている。
毘沙沢は陸の孤島、などと言って自慢していたが遠く及ばない。
2011年3月7日月曜日
2011年3月5日土曜日
2011年3月2日水曜日
就職活動
受験や就職のニュースを聞くと思い出す。
私の就職活動は今から40年前の1971年、大学4年の暑い季節だったように記憶している。
四谷の前川国男先生の事務所の図書室?で1人英文の訳をした。
NIKOLAUS PEVSNER
The Sources of Modern Architecture and Design
と手書きのあるコピーが今でも手元に残っている。
その後、先生から30分ほど面接を受けたように思う。
そして別れ際に頂いた1冊の本が先生の訳された「今日の装飾芸術」、自らが学んだコルビジェの著書。
私を先生に紹介してくれた新先生(当時都立大の非常勤)が、「所員でも先生から直接本を頂いた人はいないぞ・・・。」
悩んだ末、設立5年目の若き組織事務所である日本設計事務所に就職した。これは池田武邦先生の影響による。
今考えると、私の人生にとって大きな分かれ道だったと思う。
どちらが良いということは無いが、この本を見ると、もう一つの人生を思わないわけにはいかない。
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