2016年9月29日木曜日

光を当てて頂いて・・・

このような場所に都会人が生活する事は「なんで、どうして・・・」などと疑問の対象です。

毘沙沢での生活・・・21年の間にも、何回かそうした事に答を求められる機会が有りました。
この答えはとても難しくて、いつも、それなりに語るのですが、果たしてそれで良かったのかと、その都度反省させられます。

昨日、「つなが~るズ」の皆さんが、雑誌記者・カメラマンと共に取材で毘沙沢を訪問しました。
建築としての家はその役割を終えたら静かに自然に戻る。
地球環境への負担を出来るだけ小さく・・・これがこれからの建築の有り方、そのように考え実践している皆さんです。
歓談しながら

朽ちかけていた毘沙沢の古民家を再生して生活している我々に・・・人を繋ぐ活動もしている毘沙沢の生活に光を当てて頂きました。
建物ツアー

こうした表紙の雑誌です

昨日、この場所で語られた5時間におよぶ楽しいやり取りが、11月10日号の掲載で、書店で皆さんの目に触れることになります。
とても楽しみです・・・ちょっと怖いです。

山の中の毘沙沢の生活に、先端の未来を予言する光を当てて頂いたことに、とてもとても感謝しています。

2016年9月27日火曜日

準備万端

今日は、10月1日の稲刈りの準備。
お昼から・・・急に暑くて、湿度が高くて・・・汗ビショビショでした。

当日参加の皆さま、準備万端・・・お待ちしていますぞ。


2016年9月25日日曜日

昔の仕事・・・その14

設計終了時の模型
この時点ではヨーク・マツザカヤとなっています
筑波ショッピングセンターのプロジェクトに係わり、半年ほど西武百貨店が進める店造りの洗礼を受けていたころ、春日部ショッピングセンターの話が舞い込む。

春日部駅東口地区の再開発に春日部市商工会と市が百貨店誘致を計画し、M不動産に検討依頼。
百貨店はイトーヨーカドー関連、設計は日本設計・フジタ工業・三井建設JV設計室で、私が参加することになったのが1983年10月末。

日本橋に設計室が作られ、各社から数人が加わってチームが編成され、私もほぼ常駐していたと記憶しています。
実施設計の終了が翌年の1984年4月ごろで、着工が7月とありますから大変なスピードでしたね。

そんな状況だったからでしょうか、着工の年8月8日から22日まで米国のSC視察へ連れて行って戴きました。
ニューヨーク、ボストン、オーランド、ニューオリンズ、ロスアンゼルス、ホノルルでした。

プロジェクト関係者によるアメリカのショッピングセンター視察
私はこの時36歳 

地下工事に逆打工法を採用し、外壁型枠もオムニア板の先付けなどで工期を短縮し、72,000㎡規模でしたが、1985年11月の開店に間に合わせましたから、施工者の努力も大変なものでした。
私もそうした現場に最後まで付き合いましたが・・・。
完成航空写真と設計図・未だ手書きです

雑誌「商店建築」1986年5月号

大井清嗣さんが全体をマネージメントする役割で、私がデザインチーフだったかな・・・多くの方々に支えられていましたが。

2016年9月24日土曜日

昔の仕事・・・その13

最初のころ提案した配置模型
「プラザ元加賀」・・大規模な住宅開発は今でも施工者との共同設計が採用されることが多々あるようです。

1981年9月スタートの新日本製鉄が施主で進めた江東区白河の住宅開発は、新日本製鉄、日本設計、鹿島建設、大成建設の5社による共同設計でした。
開発手法、住棟配置、外構設計などへの助言と提案が私達の仕事だったと記憶しています。

1983年3月(私が34歳)に外構の図面化などをして作業が終わるまでの1年半、打ち合わせや作業がゆっくりと進む仕事は、設計室を作らず、設計者各社が別々の場所での作業で、なかなか難しい仕事の仕方でした。

この仕事では、販売パンフレットへ載せる、販売セールスの売りになる味付けが私の仕事だった・・のかな。
勿論居住者にとっての魅力でなくては意味が無いのだけれど。
販売パンフレット

庭の真ん中に、目玉になる物を提案する為、彫刻家の関根伸夫さんを起用して一緒に作業しています。
テーマと周辺のデザインとの関係を議論し、関根さんがシンボルとなる彫刻を製作するというコラボだったと記憶しています。
当時すでに、とても著名な彫刻家でしたので、少々緊張しながら打ち合わせなどしたのを覚えています。
関根伸夫さんの作品集から

1985年3月に高層棟(20階建)の入居が終わり、総住戸数673戸の「プラザ元加賀」の仕事は完成しています。
高橋琢朗さんと稲垣道子さんとの仕事で、私はデザインの側から参加しました。

2016年9月18日日曜日

何だか忙しい

ちょっと欲張り過ぎかな。

昨日は会津風雅堂で、星大地さんのピアノリサイタルを聴きに。
田島吹奏楽団と南会津第九の会でお付き合いのある若手ピアニスト。
ショパンの難しい曲を、あんなに感動的に・・・感心。
会津風雅堂で・・・

その後は、田島吹奏楽団の練習でしたが、難しい新曲を3曲も頂きました。
10月10日の会津田島のそば祭りまでに何とかしなくてはいけないのですが、その前日が柏の葉のコンサート・・・(~_~;)
御蔵入にて

今日は、佐野さんが稲刈りの準備できたのですが、あいにくの雨。
でも、雨のお陰で、町民運動会が中止・・・てなことで、小百合さんと和子さんが参加して、「きらく」の練習。
「きらく」の練習

音楽三昧の2日間・・・その間に家の片付けなどで、少々疲れ気味。

2016年9月15日木曜日

昔の仲間

建築の設計活動には多くの方が係わります。

「昔の仕事」で取り上げているいくつかの仕事で、電気の技術者としてご一緒した箕浦さん。
ご夫妻で毘沙沢を訪問いただきました。

なぜか良く笑ってる(*^-^*)

昔話に花が咲き、あっという間に数時間。

柏の葉吹奏楽団の演奏会にはいつも聴きに来てくれています。
次回、10月9日の演奏会場でお会いしましょう。


2016年9月14日水曜日

地域おこし協力隊との事

体験住宅
8月2日に書いた「定住生活体験住宅」で、ヒヤリングが出来ていなかった昭和村。
昨日、地域おこし協力隊の大竹さんと出掛けました。

昭和村の「田舎くらし体験住宅」は、県の補助で町が建物を用意し、NPO苧麻倶楽部が平成20年5月から運営しています。
「短期の下宿」との扱いで、1週間からの体験生活が出来る施設になっている。

体験住宅の中で・・・右奥の男性は昭和村の地域おこし協力隊員

昭和村は、からむし織の織姫制度で良く知られていて、現在も年に4名の募集に多くの応募があるようです。
そして、1年の研修の後村には4人のうち3人は残るのだと伺いました。
ですから、利用できる空き家は思いのほか少なく、移住したくても移り住む空き家を探すのが大変なんだそうです。

となると、体験住宅を利用しても必ずしも移住に繋がらない。
和泉さんの話を伺っていて、移住促進には地域の人達との接触の機会が大切で、その地の「生活を体験する」ことなんだと改めて認識しました。
その為には、建物だけが出来たのでは効果が薄く、それを取り巻く運営ソフトが大切なんだと勉強しました。
織姫交流会館で只見町と昭和村の協力隊員

今回の調査で昭和村の2人の地域おこし協力隊の方にお会いしました。
会津地域でも沢山の若者が地域おこし協力隊で活動していることを改めて認識する調査でもありました。

2016年9月13日火曜日

落ち着く時間

最近、製図版の前に座る機会が増えました。
こうした姿勢で色々な事を考える生活が長かったためか、落ち着きます。

集中力が増し、思考が深まるようです。
しばらく忘れていた生活パターンですが、とても心地よいひと時です。
空間をイメージして鉛筆で図面を描く・・・・私にとって充実した時間で有ることを思い出しています。

2016年9月12日月曜日

近づいて来ました

昨日毘沙沢に戻っています。
山の中はだいぶ涼しくなりました。
暑さに弱い私にとっては大変ありがたい、贅沢な事です。

毘沙沢のブログに「柏の葉吹奏楽団」演奏会のご案内。

車で来ると便利かな

なんで、なんで・・・ですね。
柏市は只見町とふるさと交流都市だからですかね。

でもそれだけでは無くて、私達の活動が段々広域になってきた事。
このブログを読んでいただいている方が、首都圏に増加している・・・のだ。

さらに、只見町の生活は、この町の中だけでは完結しないと最近感じるようになってきたかな。
活動の範囲を広げる事で、より贅沢な生活をエンジョイしましょうというお誘いです。

都市との交流は、都市の人達に沢山来ていただくだけでは無くて、こちらからもどんどん都市部に出掛けて行って、多くの友達が出来ると良いな・・・と思うのです。

あ、嬉しいお知らせ。
只見町にも吹奏楽団が出来ると良いな。



2016年9月10日土曜日

昔の仕事・・・その12

日本から持ち込んだ計画案を前にして施主事務所にて:撮影今井
左から順に施主・オーストラリアのコンサル・
大井さん・施主・通訳の女性・阿部さん
1981年8月、秋田から戻ったころ、国内の設計の仕事はさほど多くなかったのでしょうか。
これからは海外の仕事もしなくては、と言う空気が流れ始めていました。

そんなタイミングで面白い仕事をしています。
インドネシア第2の都市スラバヤで民間の再開発。

私のメモでは1982年4月24日~5月3日に最初の現地調査と施主打ち合わせ。
シンガポールからジャカルタに入り、ジャカルタで1泊の後スラバヤに移動しています。

中国系の施主との打ち合わせは通訳を入れてましたが、直接は筆談でした。

計画案を作って持ち込んだのが、6月12日から21日。
提出レポートと私のスケッチ

その後日本で作業をしていたのだと思いますが、再度10月11日~19日現地に出向き技術的な調査などもしていますから、いよいよ現実的に・・・と思った時期、帰国後しばらくして計画が打ち切られました。

この仕事のリーダーは大井清嗣さん。

この再開発は、その後アメリカのコンサルにより実施されたとも聞いています。
幸い英語の勉強などさせて頂きました。
日本設計からは沢山の方がJICAなどの仕事でジャカルタへ出向いた時期です。

2016年9月9日金曜日

昔の仕事・・・その11

1979年2月~3月にかけて50日ほどヨーロッパへ視察研修旅行をしています。

そして蓼雲荘が竣工する直前、次の仕事「秋田キャッスルホテル」がスタート。
当時、新橋第一ホテルの運営で、秋田市最初のビジネスホテルとして営業していた「秋田第一ホテル」の増築計画。
1981年8月、秋田キャッスルホテルとしてリニューアルオープン

1979年10月に私が描いている立面図
100室のホテルを206室へ、さらに宴会施設をも充実して、シティーホテルとして魅力を高めようとの目的でした。

1979年4月(私30歳)に設計がスタートし1980年3月着工。

設計打ち合わせが大変でしたね。
冬場には飛行機(YS11)が吹雪で飛ばないことがたびたびありましたから、夜行寝台列車での出張でした。
早朝秋田駅に着いて、打ち合わせの後、夕方秋田駅から夜行でとんぼ返りなどと言う事も有りました。

この仕事で、ホテルのインテリアデザインの勉強を沢山させて頂きました。
客室、バー、大小宴会場、レストラン、コーヒーハウス・・・・等。
大宴会場・照明デザインは永原浄さん
初めて全てを任されたインテリアデザインは、
屋上に増築したスカイバー・ロータス

秋田の現場には、家族で移住し1年ほど常駐しました。
竣工時の関係者・右から2人目が担当技師の岩月さん、
女性は厨房設計の森佑子さん、私は左端

1981年は、長女の美帆が秋田市立保戸野小学校に入学した年です。
そして、8月の竿灯祭りのころ柏に戻っています。

ホテル設計の大先輩村尾成文さん、家具デザインの今崎努さんに助けて頂きました。
岩月さんとは、家族ぐるみでの・・・・仕事でした。

2016年9月7日水曜日

新庁舎の行方

8月13日のブログに「只見町庁舎建設だより」を掲載しました。
その後、町の動きは見えない中、私の所に地元建築家として、とある方から声がかかりました。

それが、8月24日のブログに書いた「庁舎の視察」でした。

私の立場は、政治的な動きとは一切無縁です。
庁舎のような、町民の生活に直接影響のある施設整備を政争の道具にしてはいけない、との立場です(でも自分の考えを発言しないのは良くないとも思っています)。

視察の後、その時の参加者が中心となり「只見町役場庁舎建設を支援する会」が発足しました。
私は、地元建築家として、少ない情報の中から、むしろ情報が少ないからこそ書けるのですが、視察施設の解説に加えて、この町の庁舎建設への提言をさせて頂きました。

今後も、必要がありましたら、私の技術者としての経験が少しでも役に立つのであれば、協力は惜しまない所存です。




2016年9月5日月曜日

久々に

只見町のフランス料理、久々です。
ビストロ叶屋の伊豆さん、頑張ってますね。
ご馳走さまでした。


2016年9月4日日曜日

今日の田の字

今年は何時までも暑い日が続きます。
それはお米に取っては良い事なのかな。

水の冷たい、山側の発育の遅い場所にやっと花が咲いて、イヨイヨ稲穂が全面を埋める事が出来そうです。
山の中の棚田は、平地の田んぼと比べると、水が冷たく、日照時間が少ないので大変ですね。
でも、病気にならずに順調です。

稲刈りは、10月1日です。

山の中の田んぼ

下から見ると棚田ですね




2016年9月2日金曜日

古民家調査

中心となる部屋
空き家利活用の中で、候補としている古民家の調査をしてきました。
年代ははっきりしないのですが、建設当時の状態が保たれています。

規模も良し、状態もまずまず。
そしてロケーションが実に良いのです。
現在、外観はこんな感じになってます

しかしながら、数年以内に何とかしなくては、大雪でもあれば危ない。

明和自治振興会と町との協働の中で、何とか実現可能な良い案を練りだしたいものです。
これから、改修案を作ります。

もっとも、「俺が使うぞ」と声を出していただける方がいれば、ご相談ください。