2011年1月28日金曜日

雪国の歴史

今晩、このような投稿がありました。

私のブログを、このような方にも読んでいただいていること本当に嬉しく思います。
私が毘沙沢に生活しているのも「成り行き」・・・が大きな比重を占めるのですが、そこには多少の意志が働いています。でもそれは都会人の気まぐれかもしれません。
只見町とダムとの歴史を、このような形で突きつけられて戸惑っています。

私自身がもう少し勉強する必要がありそうです。
でも、毘沙沢も離村集落ですから、素直に共感しています。
せめてブログで、只見町の姿をお届けできればと、とりあえず考えています。

以下は今日届いた匿名投稿の内容です。
「人は なりゆきを 懸命に生きるしかありませんが、それは 選択が許されない場合が多いです。昭和28年ころ 田子倉ダムが出来るために移転せねばならず 会合が何度も開かれ、只見地区に20戸、会津若松に14戸・・・ というように各地に転居しました。滝ダムも同じ。喜多方、鏡石町、東京 ・・・。只見町で一番雪が多いと言われる「寄岩(よりわ)」地区の人たちも あちこちに移りましたが、かなりの人たちが鏡石町鏡田というところに ずらりと家を並べて住んでいます。雪はほとんど降らず、スーパーもたくさんあり、思う存分働けると思います。今は 三代目の人が主体ですが。ダムのために 移らざるを得なかった苦悩が 天の与えた「なりゆき」だったでしょうか。」

1 件のコメント:

穂卯 さんのコメント...

今日一日、「なりゆき」について随分考えました。
私も今「なりゆき」に翻弄されている一人ですから。
勿論、村全体の移住などという大きな「なりゆき」に苦しんだ人からみれば、小さな事なのでしょうけれど。
ここに書きたいことが山のように有りすぎて、上手く言葉にできません。
何度も書いては削除し、書いては削除し、を繰り返しました。
次回、お会いするチャンスがあれば、直接お話させていただきたいと思います。