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2019年9月12日木曜日

建築の記憶

2016年6月に古巣の日本設計からインタビューを受け、最近その内容が文字になり、文面を確認しました。
私が何に影響を受けて建築の世界に踏み込んだのか、その中で少し触れています。

昨日暑い中、上野の西洋美術館に出かけました。
松方コレクション展。

その場で、今まであまり意識していなかったことを知らされました。
西洋美術館が1959年6月にオープンした事、設計者がコルビジュエであった理由。
そしてお隣の文化会館が2年後の1961年に竣工している事実。
1959年西洋美術館開館当時・手前の工事中が文化会館
開館直後の夏の撮影・小学5年(右が私)
昨日の姿・世界遺産

私は今まで、文化会館からの影響は意識していましたし、人にも話してきました。
でも西洋美術館の事はさほど考えの中になかった。
上野の文化会館での演奏体験は1963年(後ろ中央のトランペット2人のうち向かって左側)
文化会館竣工後2年目でした、私は中学3年
昨日の姿・昔のままでそこに在る

西洋美術館から子供の時に受けた影響、今回感じるものがありました。

2018年7月16日月曜日

山の中の養蚕

日本中が養蚕(ようさん)に力を注いでいた明治期、只見地方でも各集落に養蚕工場が建ち、生糸が横浜に送られたと書かれています。

その頃使われたのでしょうか、「糸取り機械」と「糸繰り返し機械」がこの山の中、毘沙沢にも残っていました。
残念ながら気が付いた時は写真の状態でしたので、保存は出来ませんでしたので記録に残します。
残された2つの機械
「会津只見の民具」より

「会津只見の民具」から

都会で育った私は、教科書で学ぶだけでしたので、このような山の奥で過去に生糸の生産がされていたことに今更ながら驚いています。

こうした機械は町場で作られ、山道を遠路運ばれてきたのでしょう。
ですから、役目を終えても簡単には処分できず、大切に保管されていたと思われます。
糸繰り返し機械

木製機械の詳細

詳細(輪車は朴の木と思われる)

明治・大正期あるいは戦前までの日本の産業はこうして多くの地方の人々によって支えられていたのですね。
そして、日本の末端毘沙沢にも元気だった時代のあった事をうかがい知ることが出来ます。

2016年4月3日日曜日

観光地巡り

ブリストルは港町、過去に栄えた町です。
地形は横浜や神戸のように山が迫り、山側は高級住宅地で大きなお屋敷が建ち並びます。

その丘を、鋭く切り込ん渓谷が走り、港町と住宅地を分断していた場所に、吊り橋がかかっています。
世界で最初の吊り橋と言われています。
クリフトン吊り橋
丘の上は風が強い

19世紀初期の設計で、難工事と資金の関係で一時中断し、江戸時代の終わりの時期に竣工しています。

幕末の、あの時代にこのような橋が作られたのですから、さすがに工業先進国ですね。
当時は、蒸気船が港に沢山停泊していたのでしょう。

今日は、世界遺産ににもなっているバースを訪問。
季節が良く、春休みの土曜日という事で、人が沢山出ていました。
魅力のある観光地です。
ロイヤル・クレッシェント

ローマ時代の公衆浴場・・ローマン・バス

エイボン川




2015年4月29日水曜日

あの時 あの人 あの山河

前々から、布沢集落の想い出の写真集を編纂している話は聞いていました。
2日前に、届けて頂きました。

昔の写真を集めるのも大変だが、年代を特定するのに苦労したと話していました。
興味深い取り組みです。
こんな時代も有ったんですね

昭和10年、布沢分校に農繁期託児所が併設されたことなど、今では考えられません。
太田に製材工場や製缶工場が有ったなど、とても想像が出来ない。
山の仕事も

貴重な写真集です。

多くの先人の歴史をビジュアルに見て、想像できるのはとても面白いし、このように多くの方がこの地に育ち生活していた証は、文字ではなく、顔を見てさらに身近に感じます。
毘沙沢には私達も

昭和44年の水害

中には私の知る人も、若い姿で登場している。

布沢を出て生活されている方、是非この写真集を手にされることをお勧めします。



2015年3月12日木曜日

渡木地師

毘沙沢が木地師の里のような環境であること。
一山向こうに太田木地跡があること。
現在、毘沙沢の工房で木を加工していること。
そうした事から、木地師は気になる存在です。

小椋木地師の記録「木地師三代・神田賢一著」を読みました。

1、文化7年(1810年)に会津藩の招きにより、技術者として信州伊那谷から立岩郷(現・舘岩地区)岩下山に移住。
2、材料の枯渇から、現・大戸町の闇川山に移住。
3、同じ理由から、現・郡山市熱海町の三河山に移住。
4、喜多方の北、山形県との県境、岩月村沼の原へ移住。
材料となる木を求めて4回の移動、この間100年余り。

この本を読んで認識を新たにしたことは、渡木地師が会津藩の要請でこの地に移住した技術者集団であったこと。今でいえば、Iターン者募集、あるいは企業誘致みたいな感覚。

地元民との間に協定を結び、使える木の種類等を取決め、生産量に合わせて税のような支払いもしていた事。また、時に地元民を招いて接待したりもした。

生産物を売ることで現金収入を得ていたので、所得はそこそこ有ったが市場に左右され、借金をすることも多かった。

2の闇川山の頃からは、家も仮設から定着した家の作りに変わっていた。

墓はきちんと作ったが、移住で墓の移動はしない。

木地師が去った後は原野に返るこの生き方、毘沙沢の地を重ねて、何やらしんみり。

2014年6月26日木曜日

黄金狭

前々から気になっていて、読んでいなかった本「黄金狭」。
先日、ある方からの話で思い立ち、早々図書館から借りて読みました。

昭和34年8月から「週刊東京」に5ヵ月にわたって掲載されたもので、昭和35年2月に単行本として中央公論社から刊行。

舞台は、只見ダム建設時の田子倉集落。
小説では「只見」は「物見」と「田子倉」は「戸倉」となっていますが、まさにこの地を舞台にした物語です。
勿論小説ですからフィクション、しかしながら当時の様子を垣間見る思いで一気に読みました。

ダムに沈む集落の移転補償費が・・・・金銭が人間を変えていく、ということに焦点を当てています。

金目当てに群がる人々と、この地を離れたくないとの想い、それを説得する発電公社の人々の織りなす人間模様。

私も、毘沙沢という離村集落に住んでいます。
昭和44年の災害で離村した「吉尾」「野々沢」「毘沙沢」など湖底に沈んでいない集落と、2度と大地の踏めない田子倉集落との違いを少し考えたりしています。

2013年11月26日火曜日

ドキドキします

先日から、何やら車の調子がおかしい。
もうすぐ13年、18万キロですから・・・そしていよいよ昨日エンジンが動かない。
この時期の車のトラブルは困ります。雪との駆け引きが必要な時に・・・・。
バッテリーが原因ではない
こうした地では、何時でも飛んできてくれる車修理工場が必要です。
車検も修理もいつも同じ担当者・・・・ホームドクターですね。

「明日、車取りに来ます」と言って代車の手配をしてくれました。
とにかく、代車なしでは毘沙沢の生活は成り立たないのです。
もし、この故障が雪のバンバン降るタイミングだったらと考えるとゾ~です。
今週末、再び雪の予報、ドキドキです。

町の要請で、Sさんが只見町の過去の水害を記録に残すべく調べています。
昔の人が残したこの木工品が少し話題です
毘沙沢も昭和44年の水害で被害を受けています。
そんなことで、ヒヤリングに来ました。
ついでに、過去の集落の生活なども調べているようです。

こうしたおしゃべりも結構楽しい











2013年10月31日木曜日

懐かしい感じ

昨晩、第4回の「只見型『道の駅』構想検討懇談会」に出席。
この会議では、最初に3つの約束事を確認して始まります。
細かくは覚えませんが・・・・・・。
1.役職、年齢などにかかわらず参加者は皆平等にお互いを認め合う。
2.参加者は、それぞれこの会議の主役だと思って発言する。
3.他人の意見を否定しない。
おおよそそんな感じです。

私が過ごした、日本設計という組織もそうした組織で「みんなの会社」と呼び、上下の無い自由な社風が特徴でした。
しかしながら、そうした組織を離れてみると、実は、日本の社会はいまだに肩書きとか立場がものを言う・・・に気が付きます。

ですから、昨晩のような会議になにやら懐かしさを感じます。
そして、こうした会議が只見町の中で開催されていることに喜びを感じ、そして、何か新しいことが始まりそうな気がするのでした。

数日前にJ子さんから「只見町史 第3巻 民族編」を頂きました。
この町には、素晴らしい歴史のあることを改めて知ります。

2013年9月29日日曜日

只見おもしろ学バスツアー

バスツアーに参加しました。
今回のおもしろ学バスツアーは、「会津只見考古館」「民具収蔵庫」「旧長谷部家住宅」「河井継之助記念館」でしたが、注目は民具収蔵庫でありました。
新たな民具収蔵展示施設の構想検討委員に加わったという事もありますので・・・・。
収集活動に参加した目黒トミエさんの説明

お宝の山

すごいですね・・・只見中の民具が所狭しと並んで、積み上げて整理されていました。
この保存運動、活動が無かったら全てが消えていたのでしょうか。
先人の力と知恵の素晴らしさに脱帽。
されど、どのようにしてこれらを今後活用するのか・・・これから、それが試されるのですね。

考古館はだいぶ前に見た事がありましたが、今回再発見・・・・かなり面白い。
時代がだいぶ遡るのではありますが、この地の、直ぐそこで掘り出されたという臨場感は都会の博物館とは違って、なにやら身近で、親しみが持てるのです。そして、展示物の造形の美しさを再発見してしまいました・・・・けっこうすごい・・・アートだ文化だ。
土偶に感激しました、これすごいぞ

旧長谷部家住宅は、のんびり、囲炉裏のけむりの匂いで癒されました。
山栗を・・・保存のため
河井継之助記念館は、信さんの案内でした・・・・面白く良くわかる解説でした。
河井継之助記念館

快晴の気持ちの良い季節の中、教育委員会の賢史さん、麻衣子さん、ナナさん、、成人さん、若いスタッフと行動が共に出来て楽しかった。

2013年9月9日月曜日

只見町の民具収集

只見町の民具収集は、昭和40年代後半から、町民を中心に始まったと聞いています。
現在、9,743点の収集民具は、旧朝日公民館を中心に、整理、登録、保存されているようです。
平成4年初版

只見町の民具収集は、整理分類、使用方法などを、使用者・製作者である町民が自ら書き込んだというところに他と違う特徴があり、「只見方式」と呼ばれています。
そして、その一部は2003年、国重要有形民俗文化財に指定されています。

そうした膨大な民具の収蔵展示施設の建設に向けて、検討委員会がスタートしました。
この動きはエコパークにも連動したもの?で、いよいよ具体的に動き出したという事で、久々の明るい話題であります。
是非、成功に導いていただきたいと思います・・・・決め手は、町民参加ですね。

そういえば、庁舎建設とエコパーク登録・具体の動き・・・町民には良く聞こえてきていません、ありのままをこまめに公開しましょう・・・・が早道。

2013年8月16日金曜日

住宅事情・・少々

塩沢、蒲生、叶津など只見川流域の民家を見て意外だった事。
よくよく考えれば当然なのですが、茅を残した家が少ない。


国指定文化財旧五十嵐家と県重要文化財長谷部家のイメージが強いので、そのように思い込んでいたのですが、ダム建設という大きな変革期を経験していますから・・・・でしょうか。
県重要文化財

昭和30~40年代の経済拡張期に立替えられたと思われる住宅には一つのパターンが見えます(第2世代かな)。
平面は、今までの歴史を継承したものとなっています。
これは生活習慣が変わらない中で建物だけを建て替えていたからと思われます。
結婚式や葬式が家の中で行われていた時代です。

一方、屋根材がトタンになって屋根勾配が自由になった。
奥会津はまさに豪雪地ですから、軒の高さは可能な限り高くしたいと皆思っていた。
只見の雪はトタンといえども簡単には滑り落ちない・・・だとすると屋根に上って作業しやすい緩勾配がむしろ都合よい。
こうした事から、豪雪地の緩勾配屋根が一般化したと思われます。
そして写真のような住宅が建てられたのだと想像できます。

第2世代住宅・蒲生


同上・塩ノ岐

この傾向は、古い家を改築する時にも採用され、茅を除き、屋根を作り変えるときに柱を継ぎ足して総2階としている例があります。

こうした作り方は最近まで受け継がれてきましたが、ここ数年、少しずつ変化が出ているようです。
住宅メーカの建てる新たな住宅が、只見の景観に変化をもたらしつつあります。
いよいよ第3世代でしょうか?

美しい景観とするために、この期を逃がさず、エコパークに向けて、実行ある景観条例の早期施行が待たれますね。
蒲生の集落・・青い屋根が気になります

2013年8月15日木曜日

終戦記念日

先日の「一枚の新聞紙」に対して下記の投稿を戴きました。
私は、終戦3年後に生まれましたので戦争を知りません。
それでも、未だその余韻のような物は感じて育っています。

今日は終戦記念日、68年が過ぎました。
戦争の恐ろしさが色あせてきて、靖国などが話題に上ります。
戦死者の魂は靖国には無いと私は思っています。
親や、兄弟や、妻や子供の心の中に残っている戦死者の無念が、時間と共に消えて、靖国が頭を持ち上げてくるのは何故なのだろう?と不思議を感じます。

以下、2つの投稿です・・・ありがとう。

■ 壺井 栄の「二十四の瞳」は、昭和3年から昭和21年までの、戦争に翻弄された十二人の子らの人生を書いているわけですが、昭和3年、小豆島の分校に洋服姿で自転車に乗った大石久子先生がやってくるところから始まります。ハイカラ・おてんばのおなご先生が来たと、島中の話題になります。「パーマネント女史」が学校の先生で、日本の現在の情勢を考えているのだろうかと批判の投書。昭和17年 ミッドウェー海戦敗北、18年ガタルカナル島撤退、アッツ島玉砕。学徒出陣始まる、その頃です。「生きて帰って来いよ。」とさえ 他人がいるところでは口に出来なかったのです。自然の感情として発する言葉さえ、戦争に反対する「アカ」呼ばわりにされ、にらまれた時代でした。 

■ この日は父の19歳の誕生日。父の青春時代の世相が見えた気がします。

2013年8月8日木曜日

一枚の新聞紙

壁に貼られた新聞紙が昨日剥がれた。
女房に言われて今日片付けてみると、昭和18年2月14日(月)の読売報知。
70年が経過した新聞紙、戦時中の紙なのだが、今も紙としてしっかりしている、そして印刷も問題なく読める。
変な事に感心。
70年前に壁に張られたもの

一面は戦果、内容は未だ日本軍優勢記事。
戦果は華々しい
そんな中に面白い記事を見つけた。
滝野川の鈴木康子さんの投稿、私の母は滝野川小学校卒、そしてこうした時代に青春。
一般国民の意識?

一方でこんな広告もある。
一方でこうした広告も
こうした紙面を見ていると、戦争は、日常の延長の上に、知らず知らずのうちに、何気なく忍び寄って来るものかもしれないと思う。
終戦記念日が近づいて来た。








2013年6月27日木曜日

昔の写真

昭和44年の災害直前の毘沙沢集落の写真。
だいぶ前にそうした写真があることは聞いていました。
「今度見せてください」とお願いしていたのです。
今朝、良助さんが持参してくれました。
離村前の集落

同じ位置から見る今の毘沙沢

この写真は、昭和42年ごろ、弟さんがカメラを購入した時に写したものだとのこと。
手前が新次・良助さんの家、奥が右から芳二さん、鬼子児・和男さん、新吾・義信さんの曲がり家。
良助さん

残念ながら我が家はさらに右、入り口の道だけが見えます。
現在舗装されている新しい道は未だ未舗装、右下に下る道が主に使われていたようです。

コーヒーを飲みながらお話も伺いました。
「毘沙沢は道が多かった・・・大田、布沢、坂田、野ノ沢へ、それぞれ通じる道があった」「昔の人は坂道は苦にならなかったから、山の上にも畑を作っていた」「その昔はさらに大きな集落であったらしい・・・」などと。

毘沙沢の昔の写真をお持ちの方、お知らせ下さい。

2013年6月9日日曜日

南泉寺楼門の屋根吹き替え

我が家から会津田島への移動はなにかと多い。
初めて只見を訪れた時もこの道を通過したような記憶がある。
そして、田んぼの向こうに凛として立っている鐘楼門がそれ以来気になっている。
本堂側から見ています

雪国にしては屋根の大きな大胆なデザイン。
ですから雪の時期には囲われて養生がされます。
時には車を降りて近づき柱を撫ぜたりもした。

その鐘楼門が現在屋根の茅を葺き替えている。

雪解けと共に始まった工事はゆっくりで・・・それでもだいぶ形になってきた。
近づいてみると、建物そのものがだいぶ痛んでいる・・・・でも、屋根が新しくなれば、さらに30年は寿命を延ばすのでしょう。

完成したら、またブログにアップします。

2013年4月21日日曜日

只見おもしろ学ガイドブック

昨日「只見おもしろ学ガイドブック」推進町民大会が行われました。
只見町教育委員会が発刊した町のガイドブックのお披露目会です。

私の良く知る方々が何人か関係していましたので、湯ら里会場まで出掛けました。
271ページのこの本には第1章自然、2章民族、3章歴史、4章産業、5章文化に分けて浅く広く只見町の全容が分かる仕組みです。

良く出来ています。あまり時間をかけないで只見町の姿が分かります。
さらに素晴らしいのは、インターネット上で何処からでも読むことが出来ることでしょうか。
もし興味がありましたら、只見町のHPから『「只見おもしろ学ガイドブック」電子版が完成しました』からアプローチして下さい。

今回この本に目を通して、改めて只見町の先人の残した歴史の重さと質の高さを感じました。そして、これらが、未来のこれからの町にとって財産として活用されることを願います。

夜、久々に吹奏楽の練習に参加。
参加者少ないのですが、フラットな楽しい時間でした。