2020年9月30日水曜日

想い出の中に・・・その65

「森林の分校ふざわ」が指定管理になって早々いろいろな方からのお話が舞い込みました。その中で記憶に残るイベントの一つが只見町介護老人保健施設「こぶし苑」の訪問、遠足が有りました。

ロッキングチェアーが人気でした

昼食

人数が多いので、6月14日と7月12日の2回に分けて。

ホールでワイワイして、昼食をいただいて、普段とは違う環境で過ごす時間は介護施設で過ごす高齢者の皆さんにとって大切な時間だったようです。

分校に到着して

記念撮影6月16日

記念撮影7月12日


苑報「こぶし」の記事

私達にとって初めての経験でしたが、受け入れる側も皆さん一生懸命で・・・そうした気持ちが伝わったのか笑顔が絶えませんでした。

良い企画だったと思います。13年前の出来事ですが関係者の皆さんに感謝いたします。

 

2020年9月29日火曜日

想い出の中に・・・その64

 2007年4月14日(土)「森林の分校ふざわ」が指定管理者「森林の里応援団」による運営が始まりました。

最初のお客さんは、私達が運営する前から釣りのため分校を利用していた東京の釣り仲間。頼住さんはじめ10名程度が毎月利用するという常連で、その後も利用は続きました。

5月の連休を何とか乗り切り、5月18、19日の分校の田植えイベント。初めての事で、準備に追われていました。

そんな中、東京のテレビ朝日から「人生の楽園」への出演依頼が入りました。11、12日に製作担当の市村奈穂さんが急遽只見駅からタクシーで毘沙沢に駆けつけ・・・とてもお急ぎの話で、ハンドカメラで映像と話を録画し、私達の運転する車で舘岩・会津高原駅経由で東京に戻っていかれました。

その後、東京の会議で製作が本決まりし・・・なんと、1週間後の分校の田植えイベントを中心に撮影開始が決まりました。


人生の楽園の撮影

田植えには日本設計の絹巻さんご家族が参加されることで、テレビ局から本人に了解を戴いたりして・・・そして私達も田植えの準備で大忙しでした。勿論、布沢・坂田の皆さんの協力のもとにですが。

第1回分校の田植えイベントに参加の絹巻さんご家族

撮影隊は、5人ほどだったと思います。分校での私達の働く姿、毘沙沢の生活、そして只見町の様子などいろいろな角度から撮影していました。そして、田植えイベントも・・・。

しかしながら、撮影3日目の朝、私がダウン。私への撮影は中止・・・そして、その後何回か電話で連絡を頂きましたが、こちらの事情から残念ながら撮影の継続は出来ませんでした。というのは、この時点でさらに3・4日の撮影が必要だったのです。

予定されていたTV放映は変更を余儀なくされ、担当の市村さんはじめ関係者の皆さんには大変ご迷惑を掛けたことと思います。

しかしながら、私にとっては始まったばかりの分校の運営がまずは大事で、こちらを優先せざるを得なかったのです。ここで倒れるわけにはいかなかったのでした。

その後、幾つかのTV局からの撮影依頼は、地方の簡単な物を除いて、お断りしたように記憶しています。

この間の私の記録写真も残念ながら紛失しています。もし何方かこの時の田植えの様子など撮影したものをお持ちでしたらお知らせ頂けると嬉しいです。

2020年9月28日月曜日

想い出の中に・・・その63

 2007年3月23日、はりゅうウッドスタジオの滑田さんはじめ数人がイベント準備のため来宅。23日―24日の「場との対話・雪原の古民家を使った映像制作イベントin会津2007年3月23-24日」の準備に入った。


DVDジャケット

今は亡き芳賀沼整さんが私の住む毘沙沢に何かを感じ、福島県の建築家協会を巻き込み、福島の建築家に豪雪地の厳しい環境での生活を直に伝えようとするイベントでした。

針生(はりゅう)という、同じように雪深い地で育ち、また、兄2人が過疎と戦う中で、三男の彼は弱者に味方する優しさを身に着けて育ったのだと今思います。その後そうした性格が彼を新潟と福島の被災の地へと駆り立てるのだが、この時の私にはその事は未だ良くは分かっていませんでした。

映像を映すための雪の壁構築

照明打ち合わせ

総監督の芳賀沼整さん

2日間のイベントは1枚のDVDにまとめられて今に残る。しかし、残念なことにこの時期の私のスチール写真はいくら探しても見当たらない。デジタル化への変化の中で私の保存方法が確立できていなかったようだ。ということでDVDからの映像を掲載。

夜の照明による演出

福島県の建築家の皆さん

到着して

インタビューを受ける私

移住し、その後厳しい環境で生活することを決意した身にとって、大きな勇気を与えてくれる出来事でした。

2020年9月27日日曜日

2地域に住まう

 「想い出の中に・・・」で書いている2007年当時は100%の移住者でした。いや、移住者として只見町に浸かっていました。でもあれから13年、今は2地域生活者(法的に只見町住民)となっています。

2地域生活者は2つの場所を、ほぼ同じ道で移動します。一定の道順に行きつくのには相当の試行錯誤が有りましたから幾多のルートを持っていますが、日常的には固定します。そして途中の休憩場所やガソリンスタンドなども不思議と決まってくるものです。昨日の昼食は回転寿司、回転しないで新幹線で運んでくれるので新幹線寿司。土曜日とあって家族連れで賑わっていました。

微笑ましい

今回の毘沙沢では藤森さんから依頼のデスク製作が主でしたが、その間にお友達の訪問もありました。

製作中の家具


松坂峠を超えてお隣の町へのドライブもしましたが、多くのナラの木が枯れています。楢枯れです。もうすぐ我が家にも押し寄せてくる勢い、その先どのようになるのか心配です。

松坂峠の楢枯れ

そうそう、金山町のお店でお酒を買おうとしたら、お値段が分からない事件がありました。結局買うことが出来ませんでした・・・のどかですね。

電話で問い合わせてくれたのですが分からない・・この絵は本人若く描きすぎm(__)m

2020年9月19日土曜日

毘沙沢の仕事・・・今

 暑かった夏もそろそろ終わりでしょうか、毘沙沢は秋の空気です。

相変わらず2地域を行き来しています。これはコロナ禍の今の時期好ましくない生活スタイルのように思われていますが、本人達は相当気を付けていて、限られた2拠点間移動なので危険な感じはありません。

今日も、国勢調査など2人の訪問が有りましたが、距離を保って外で話をします。

現在の私の家具の仕事はFさんのデスクで、午前中天板のオイル仕上げが最終。昨日からチェストの製作に入っています。木取と製材が主です。途中で組み立て方を変更し、小さな部材の組み合わせにしました。



富美恵は麻糸とシナの木の皮の布を織っていましたが、今日一段落。太い麻糸と木の皮は縄文のたたずまいです。


17日の夕方、家の上に20~30羽ほどのアマツバメが赤とんぼの群れに襲い掛かり狩りをしていました。まるで戦闘機の空中戦のように、・・・アマツバメは何十日も空中で過ごすのだそうです。食事も寝るのも飛びながらと書かれています・・そろそろ南を目指しての途中だったのかな。

そうだ、今回こちらへ来るときに田島でお友達のリンゴ農家に寄ってリンゴを分けて頂きました。まるじょう果樹園、姉妹で頑張ってます。

2020年9月16日水曜日

想い出の中に・・・その62

4月14日がオープン日と決まり、急ピッチで態勢を整えましたが、その中で幾つかのこだわりがありました。
これらは、この施設を恵みの森のビジターセンターとして多くの都会の方々に利用していただきたいとの思いからでした。

1 パンフレットを充実し、都会に向けて発信(過去の利用者や只見町出身者への郵送認知)する。
2 ホームページを作り、絶えず内容を更新する。
3 スタッフには一人ずつユニホームをあつらえ、身だしなみを整える。
4 食事のテーブルには白いクロスを掛け、ランチョンマットを使用し高級感を演出する。
5 朝食には煎れたてのコーヒーをサービスする。
6 客室に鍵をかけられるようにする。
7 犬も一緒に宿泊できる宿舎。
これらは、それなりにエネルギーを要することでしたが、とても上手くいったように思います。
スタッフのユニホームはこんなでした

テーブルクロスとランチョンマット
なを、施設に関して、個人あるいは家族に対して、より多くの方に気持ちよく安全に宿泊していただくため。
あるいは収容人数を増やすことなどを考えて、プランの一部変更を提案しましたが、残念ながら受け入れられませんでした。
記録として掲載しておきます。
当時提案したプラン

想い出の中に・・・その61

いよいよ2007年に突入、激動の1年となります。
雪国では雪の時期に人が集まることが多くあります。
私は、毘沙沢でこの時期冬眠ですから困るのですが、担ぎ出された以上無理をしてでも・・・。

1月28日、布沢区の総会が開かれ、その場で森林の分校の取り扱いが議論され、予定通り「森林の里応援団」の指定管理者での運営と私の支配人が承認されました。
こうした手続きが必要なのは、その前が、町から区が運営を直接委託されていた経緯があったからです。
しかし、後で知ったのですが、こうした事への反対もあり、区は2分されていたようです。
この事は、その後の運営に影響を及ぼしています。
今まで運営に携わっていた方々の協力が得にくかったのです。

ともあれ順調に事は運び、春に向けて、布沢と坂田2つの集落、布沢川流域活性化に向けて動き出しました。
パンフレット用の関係者集合写真・3月4日
冬の間に関係者の集まりが何回か行われ、3月4日に運営関係者でパンフレット用の集合写真を撮り、4月1日、メニュー開発のための試食会が行われました。
メニュー確認のための試食会・4月1日









2020年9月15日火曜日

想い出の中に・・・その60

2006年末からは、家具の仕事に加え、2007年から始まる「森林の分校ふざわ」の準備でほとんどの時間を取られていました。
11月24日に指定管理の申請を町に提出し、12月6日に町からの返事を戴いています。
このころから具体的に、来春の開設に向けて準備に入りました。

もっとも、私一人の仕事ではなく、晃吉さんと吉久さんとの協働でしたから、そんなに頑張る必要もなかったのですが「森の里応援団」の代表で分校の支配人とされていて、張り切らざるを得ない立場に押し上げられていたのでした。

一応宿泊施設ですから、多くの方に知って頂く必要がありました。
パンフレットとホームページの作成。
そして、食事などのスタッフの確保、メニューの確認等々・・・。

2007年は、新年早々からそんな準備でバタバタしました・・詳細は次回。

私の越冬を気づかって、沢から水を引き消雪池を作る手伝いをしてくれたり、布沢集落内に空き家を紹介してくれたり・・・そんなこともこのころの事でした。

2020年9月14日月曜日

想い出の中に・・・その59

毘沙沢には白山神社がありました。
過去の住人に聞くと、お祭りは賑やかに村人総出で祝ったとの事。
子供達は神社の周りで遊び、病人が出ると神社に運んだなどと言う話まで聴いた。
心の支えだったのですね。

その白山神社が2006年12月2日、この地を離れ太田の二荒山神社に合祀。
私は直前に伺ってご一緒させていただきました。
合祀を終えて、太田・二荒山神社の前にて
当日は、かつての毘沙沢住人の代表者数人と、布沢区の神社関係者、そして神主は田島の熊野神社からお呼びしていた。

古いお札や、神事に使う物ども、そして何故か古銭と石。
古い書付は「宝永6年4月」と、もしそうなら1709年、今から300年昔の江戸の時代。

白山神社

白山神社にて

宝永6年と書かれた札
神様が引越しされ、空き家になった神社建物はその後何年かして取り壊されたが、私は何かとても淋しい気持ちがしました。
永い永い間、多くの人々の心の支えであったものが、目の前で消えていくのを体感して。

2020年9月13日日曜日

想い出の中に・・・その58

2006年の秋、松坂峠の頂上で金山町の皆さんとの国盗り綱引き大合戦なる行事が開催された。
確かこの年は第8回だから、思い付きではない。
朝早くから準備

松坂峠の頂上で
山を隔てた隣町、行政郡も違うので隣の国なのだと言う。
それでも昔から仲が良く、江戸時代の昔から険しい山を隔てた永い永い付き合いが続いて来たのだ。

隣町からの嫁入りもたびたび有ったようで、峠の上で互いに見送ったという話も聞いた。


多くの方が参加されていました
このイベントはそうした互いの不便を解決するためのトンネル化運動の一環。
互いの集落は、峠が通行できない冬季は行き止まり集落となり行き来が難しい。

これは不便であるとともに、不安なのである。
行き止まり集落布沢・坂田(昭和村に抜ける吉尾峠も現在不通)に将来の発展は無い・・・と住人は感じているのです。


このころは未だ明るさがありました
この峠の綱引きは、その後数回続いたでしょうか?・・・今は行われていません。
トンネル化という夢(実現可能性のない)ことへの諦め、これが中山間地をさらに疲弊させているように思います。
残念ですが、14年前の、あの明るい元気はもう見当たらないと感じています。