毘沙沢が木地師の里のような環境であること。
一山向こうに太田木地跡があること。
現在、毘沙沢の工房で木を加工していること。
そうした事から、木地師は気になる存在です。
小椋木地師の記録「木地師三代・神田賢一著」を読みました。
1、文化7年(1810年)に会津藩の招きにより、技術者として信州伊那谷から立岩郷(現・舘岩地区)岩下山に移住。
2、材料の枯渇から、現・大戸町の闇川山に移住。
3、同じ理由から、現・郡山市熱海町の三河山に移住。
4、喜多方の北、山形県との県境、岩月村沼の原へ移住。
材料となる木を求めて4回の移動、この間100年余り。
この本を読んで認識を新たにしたことは、渡木地師が会津藩の要請でこの地に移住した技術者集団であったこと。今でいえば、Iターン者募集、あるいは企業誘致みたいな感覚。
地元民との間に協定を結び、使える木の種類等を取決め、生産量に合わせて税のような支払いもしていた事。また、時に地元民を招いて接待したりもした。
生産物を売ることで現金収入を得ていたので、所得はそこそこ有ったが市場に左右され、借金をすることも多かった。
2の闇川山の頃からは、家も仮設から定着した家の作りに変わっていた。
墓はきちんと作ったが、移住で墓の移動はしない。
木地師が去った後は原野に返るこの生き方、毘沙沢の地を重ねて、何やらしんみり。
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