2022年8月8日月曜日

毘沙沢(びさざわ)

 この表題は、このブログの最初(2008年3月24日)に書きました。
毘沙沢という、世界に一つしか無い地名は、長い長い歴史を生きてきた奥山の小さな集落です。
豪雪地の厳しい冬を何百年とこの地を守ってきた人々がいたから残った里山です。

5軒が離村する直前の集落

その人々が、どの様な環境の中で、どの様な理由で、どの様にしてこの地を離れたのか?
関係者が存命中に、こまめに調べる事をしてこなかった事を今悔やんでいます。

当時町の職員で、布沢在住のK氏へのインタビューを、2014年発行の「只見町 川と人の物語」に見ることが出来ますので引用します。


「昭和44年の水害では、毘沙沢の民家に被害はなかったが、農地の三割程度が山の崩落による土砂で埋もれてしまった。当時毘沙沢には民家7棟があった。村民の姓は全て梁取。毘沙沢の子供たちは、布沢分校まで約2.2キロを毎日歩いて通った。・・・・」
「当時、明和地区で冬期間除雪が行われていたのは、国道289だけであった。布沢や毘沙沢においては、昭和47年以前は春先除雪といって、道路の除雪は春になるまで一切行われなかった。・・・」

と言う事から、昭和44年当時、この地域は布沢も毘沙沢集落も冬に車の入らない、今とは比べ物にならない厳しい世界であったことがうかがえる。

「当時、毘沙沢の水害復旧は可能であった。しかし、県の過疎対策として、辺地集落を中心集落に集める集落再編成構想が持ち上がっていたこともあり、毘沙沢においても集落移転の話が浮かび上がった。毘沙沢の7世帯のうち5世帯は、悩んだ末、町が用意した大倉の住宅地に移転することを決め、翌(昭和45年)の秋頃には移転が完了した。・・・」

この事から、毘沙沢集落では家屋の被害は無く、むしろ安全な場所であることが伺える。
ですから、災害が引き金にはなったが、災害が原因で離村したのではないことがわかる。

〇最後まで毘沙沢の暮らしにこだわった人たち
「梁取長佐さん(大正時代初めの生まれ)夫妻は毘沙沢での暮らしを止めることはなかった。これまで通りの暮らしを夫婦2人だけでも続けると決めた。また、梁取藤吉さんは布沢に新しい家を建て、そこから毘沙沢まで毎日2.2キロの道のりを通って農業を続けた。そして、毘沙沢の旧自宅は農作業小屋兼出小屋として利用した。町はこの2世帯の農地については災害復旧をした。・・・」

この事から、私の住む家と、お隣の家が残り、私達がその後を引き継いで暮らしていると言う事に繋がるわけです。

私は、この記述は事実だろうと思う。
長佐さん夫妻が守った家を私達が引き継ぎ、藤吉さん夫妻が守った家を岩〇さんが引き継いだのです。

引きついた時の我が家と土蔵
1994年秋

今、そのころのことを知る人は少なくなりました。しかしそうした歴史の中でこの奥山の風景が残っていることに慈しみを感じます。

林道の終点から見る今日の毘沙沢集落

只見町はユネスコエコパークに登録し、自然と共に暮らす里山の暮らしに光を当てようとしています。
民具収蔵展示施設「ただみ・モノとくらしのミュージアム」の活動も始まりました。

毘沙沢のような里山の暮らし、その現場を、その風景を、次なる世代に繋げ残すことを新たな目標にしていただければ幸いです。
毘沙沢を離村集落としてだけでは無く、残された貴重な里山集落として価値を見出し、大切に見守って頂けると先人も喜ぶはずです。