「外山興和ビル」は私が入社時に建設中の建物で、当時竣工から24年という未だ新しい高層事務所ビルでしたが、すでに社会の要求は、さらに大きな経済性を求めていたようです。
1997年春、M不動産から「現在、隈研吾さんに計画をお願いしているが、高層ビルへの経験から日本設計共同で・・・・」との依頼を頂いたのが始まりと記憶しています。
その後、2社で別々の案をつくり、施主となる日本サムスン(当時、三星)への提案へと話が進み、1997年8月13日、隈研吾さんの案と私達の案とが、浜町センタービル三星日本本社の役員室の大きなテーブルの上に並んだのでした。
レポートで使ったCG |
綺麗な模型も作りました・・・ソウルに置いてきた? |
当時は今ほどではないにしろ、隈さんはすでに著名な建築家でしたので、その時の様子は今も懐かしく思い出します。
その後、ソウルのサムスン本社でのプレゼン、この時は大井さんが出かけました。
そして、結果は日本設計で進めることになったのですが、韓国の経済事情でその後一時休止となり、再開は1999年4月でした。
隈さんの案は手堅いものでしたが、私たちの案がよりサムスン好みであったのだろうと想像してます。
酒井孝博さんとの共同でした。
私の手書きのスケッチ |
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