模型写真:お茶の水駅前の22階建て、左がニコライ堂 |
設計室と書いたのは、郭先生のKMG建築設計事務所との協働作用だったからです。
日本出版販売本社ビル設計の依頼を郭先生が受け、超高層ビルと言う事で、日本設計に共同設計を求めたのです。
高層部が1981年8月竣工、今から35年前 |
担当は、霞が関ビルで郭先生と共に働いた阿部彰さんがチーフ、私は大生相互での経験が買われたのだと勝手に解釈しています。
私の担当は外壁の技術的なサポートで、PCカーテンウオールの大きなパネルに横長の1枚板ガラスをガスケットで固定するデザインの実現に携わりました。
郭先生が、霞が関ビルの事務所の中に作らせたPC版のモックアップを前にして、我々の意見をたびたび聞かれる姿を今も良く覚えています。偉ぶらず、とても謙虚な姿勢が郭先生の偉大さだったのだと思います。
ほぼ2年間の設計作業の中で、多くの事を学びました。
そして、沢山の設計室の仲間と大いに遊んだ時期でもありました。
設計室のメンバー、良く遊びに出掛けた蓼科の高原荘・・私は上段左から2番目 |
この間に、次女の燈が産まれています。
誕生の朝、娘の顔を見てすぐに蓼科へ出向き、ゴルフなどしていた生活を未だ富美恵からは恨まれています。
そうそう、この間に隈研吾さんが日本設計に入社し、私の隣の席で共に仕事をした経験がありました。
今は知らない人のいない著名な建築家ですが、当時は無口な若者だったように記憶しています。
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