2011年3月14日月曜日

谷の国

司馬遼太郎の「この国のかたち」の中に「谷の国」という記述がある。
「谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった」という。
明治以後外国人が丘のを上を好んだことから、現代日本人も高級住宅地を「・・・丘」としたが、本来日本人にとって丘は住む対象にはない土地、と書いている。

確かに、私の周りを見渡しても全てが谷に住んでいる(最近の別荘は別)。
田も畑も川に沿って谷の奥へと伸びている。

「ただ、谷底の田はしばしば洪水に流される。家まで流される。そういう危険とのかねあい―二律背反の緊張―の上に日本社会が出来上がっている。」

今回の津波を見て、あらためて日本人の生き方の歴史を見たような気がしている。

3 件のコメント:

ばーばのぱぱ さんのコメント...

確かに西欧の人々は岡の上に町を作るのを好みますね。イタリアの都市国家などその典型で、そこに市民が暮らしていますね。生産は城外で牧畜や農業などしていたりして。

一方日本は稲作民族だから水がなければ生きていけなくて川の近くに住んだのかな。武士といったて所詮、元をただせば農民だから。

毘沙沢 さんのコメント...

武田信玄は農業土木の先駆者だそうです。
明野周辺にもそうした遺功が見られるのではないでしょうか。

NOUGYOUDOBOKUに相当する英語は無いようです。

ばーばのぱぱ さんのコメント...

信玄堤というのがあります。甲府盆地を釜無川及び笛吹川の氾濫から守るために築いた壮大な堤防です。これによって甲府盆地の農業生産が安定したものになりました。
明野には田畑のための用水路が張り巡らされています。かつて信玄の武将の一人でこのあたりを治めたわが屋代勝永もおそらくこうした土木工事を指揮したことでしょう。この時代農業生産が上れば人口が増え国力が増す、つまり政治だった。
ちなみに農業土木は稲作によって発達しました。水田を作るには高度な土木技術が必要だった。何しろ相手は水ですから水平でないとならない。西欧の牧畜などには必要のない技術だったんでしょうね。